CART

青砥武平治と村上鮭

青砥武平治 なぜ村上が「鮭のまち」なのか。それは、村上の人々が 古くは平安の昔から鮭とともに歩んできたからです。 村上市内を流れる三面(みおもて)川は 古くから鮭の遡上する川として 地元に豊かな収穫をもたらしてきました。しかし自然に頼る鮭漁はやはり不安定なもの。そんなとき、安定した漁獲高を保つための画期的な方法を考え付いた人がいました。
江戸時代の村上藩士・青砥武平治です。

種川を作った青砥武平治

鮭は必ずその生まれた川に戻ってくる。いわゆる鮭の「回帰性」と言われる本能を世界で初めて発見したのがこの青砥武平治でした。
武平冶は帰ってきた鮭が安心して産卵できるよう、三面川に産卵のためのバイパス、すなわち「種川」を作って鮭の産卵に適した環境を整えようと考えたのです。
産卵条件として川底が小砂利で鮭が産卵床が作りやすい、生んだ卵を外敵から守れる、水温が安定し新鮮な水が供給可能な湧水のある所等々が考慮されたようです。
村上藩ではこの青砥武平冶の考えを採用し、彼の設計/指示により鮭保護増殖のため実に三十年以上をかけ河川整備を行い「種川」を完成させました。
村上藩がこの大工事に取り掛かったのが宝暦13年(1763年)、完成は青砥武平冶没後6年を経て、寛政6年(1794年)とされています。
青砥武平冶以来、「種川の制」によりサケは次第に増え、豊漁がつづき、村上藩に納める運上金も最初は40両程度でしたが1800年頃には1000両を超えるまでになりました。
これが村上藩の財政に寄与いたしました。
運上金」とは三面川の河口から酉輿屋から対岸の寺尾を結んだ村上藩簡の川を「運上川」とし村上町大年寄の責仕でその年の鮭の漁業権を入札させ、最高額の入札者がその年の大納屋になって鮭漁を行い、落札した金額を納めさせる制度です。

青砥武平冶によるこの世界初の保護増殖システムは見事に功を奏し、前にもましてたくさんの鮭がとれるようになりました。
明治時代には鮭の人工孵化にも成功。それによって得た財源を旧士族達の子弟教育に使い、そのことから立身出世した人を「鮭の子」と呼ぶようになりました。。

 

    越後村上うおや

  • 越後村上うおやは寛政年間、初代上村助五郎が鮭の元売業を起こし、以来さかなと共に200年、現在の店主で九代目を数えます。 古い文献には文政元年(1818)九月十九日肴町助五郎(上村氏四十六歳)が鮭川入札でその年の鮭の漁業権を金1317両で落札。大納屋となりました。 翌20日には網子7,8人と羽黒神社に参詣し祈願したと記述があります。(江見啓斎翁日誌) 

    運上金>鮭のその年の漁業権を入札にして落札した金額を藩に納めさせるシステムで、運上川の入札は、毎年秋の初めに村上町の大年寄りの責任で行われました。最高額の入札者がその年の大納屋になってサケ漁を行い、落札額を運上金として村上藩に納入しました。

    以来200年。鮭を愛し、こだわり続けて、現在九代目。皆さまには長きに渡ってご愛顧いただき、中には親子二代で買いにこられる方も。本当にうれしい限りです。 これからも村上ならでは、【うおや】ならではの美味を 全国の皆さまにお届けしてまいります。村上にお越しの際は、お気軽にお立ち寄りください!

    鮭の酒びたし

    鮭の鮭びたしは越後村上うおやの鮭こうばで半年以上じっくりと旨味が熟成されます。夏の村上大祭やお盆の時期に待ちわびている方も多い商品です。鮭の里村上が誇る郷土の逸品です。

  • 村上の鮭料理

  • お米のとれない年には鮭によって命を救われてきた村上の人々は鮭を心から愛し、少しも無駄にするまいとさまざまな調理法を開発しました。 今でも村上にはこの地独特の鮭調理法が100種類は存在すると言われています。江戸時代から続く伝統の味の数々。村上の人たちは鮭をこよなく愛し、村上ならではの多彩な料理法で鮭を頭から尻尾まであますことなく味わい尽くします。その鮭料理の数は百を超え、鮭を愛する地元の人々の昔からの知恵と工夫が生きています。。。 【うおや】でも人気の鮭製品はその代表的なもの。 地元の伝統と老舗の技が光る絶品・美味を 今年も全国の皆様にお届けいたします。

人気商品